早いもので、2024年ももう締めくくりに入った。今年も、毎年恒例になりつつあるアドベントカレンダー企画、「ゲームとことば」に参加したが、ギリギリ滑り込みで参加表明を行ったせいで、12月3日の担当だったのに1日遅れて、これを投稿しているのは12月4日の昼下がりだ。申し訳ない。
これまでのアドベントカレンダーでは特定の作品について語ってきたが、今回はちょっと趣向を変える。それよりちょっと抽象的なこと、具体的には私が普段から考えている「ゲームとことば」、「ゲームと翻訳」に関する話を書こうと思う。
前提として。
ことばにならないものがないなら、ゲームは生まれない。
だって抱えていることがことばだけで言えるなら、ゲームなんて制作されないのだ。言いたいことがことばだけで言えるのなら、そのとき書かれるのはきっと、小説や評論やブログ記事や、SNSへの投稿だろう。あるいは口で話すという形になって、スピーチや講演、ポッドキャストでのトーク、TwitchやYouTubeでの動画配信が作られるのかもしれない。
受け取る側が積極的に操作するような能動性が必要ないのなら、作るのはゲームでなくても、アニメやドラマ、映画だっていい。ライブや演劇のなかには、時に演者と観劇者がインタラクティブに関わりあって、ゲームのような展開を見せるものもあることだし。
生み出された作品がそれらのどれでもなく、デジタルゲームであることには必然性がある。
どんなゲームにも、プレイしたときの手触りがある。「テキストを読むだけ」と言われるノベルゲームですら、テキストの表示フォントの種類、立ち絵やイラストを切り替えるタイミング、BGMやSEのチョイス、画面クリックやキータイプでゲームを先に進めるときの具体的な手ごたえ、大ざっぱに数え上げただけで「ことばではないもの」 に分類される情報がこれだけある。この時点で、文字だけで構成されるコンテンツとは、受け取る側が感じる「体験」が大幅に異なるのが分かると思う。
ゲーム翻訳者界隈では定期的に「話しているキャラや状況、アイテムの見た目や性能などの文脈情報がないと、ゲームは訳せない」「理想的なのは、完成したゲーム本体をプレイしながら翻訳すること」という話が飛び交う。
その理由はシンプルだ。
「ゲームに出てくることばをどう日本語に変えるか」が、ゲーム翻訳ではないからだ。
「プレイフィールをどう日本語に落とし込むか」が、ゲーム翻訳なのだ。
キュートでポップなキャラがコミカルに動くカジュアルなアクションゲームで、原文には特に難しい単語は出てこないのに、「出来る」「宜しくお願いします」「偶々」のように、変換できる漢字がすべて漢字になっていたら、雰囲気が堅苦しくならないか。
安易な性的役割にとらわれない物語を生きているキャラクターのセリフが、コテコテの役割語で特定の性別を演じるように書かれていたら変ではないか。
原作と第一言語が同じプレイヤーでも文章の奇妙さに引っかかっていちいち困惑するようなテキストをなめらかに読みやすくしたら、原作と日本語版でプレイ体験が変わってしまうだろう。
文脈や設定から、社会への視点、政治体制への批判など、開発者の信念が透けて見えるものを「日本のプレイヤーには思想が強すぎる」といってマイルドにしたら、その訳文は果たして、開発者の意図したプレイ体験をなぞれているのだろうか?
「原文がそうだから」と言って、特に哲学的なコンセプトで作られているわけでもないゲームのベーシックなチュートリアルを、一読してプレイ内容がわからない形に訳すのは「原文の尊重」なのか?
ほんの趣味にすぎなくても、創作をかじると分かる。少しでも「こうしたい、ああしたい」という理想が頭の中にあって、それを実現しようとしたとき、創り手は自分の作品を、公の場に発表する直前まで微調整する。微調整を加えて、それから全体を確認して、気になった細部をまた見ていく。何度も何度も何度も、本当に何度も、微調整と確認を繰り返す。
たとえば、小説を書くとする。物語の良し悪しを決めるのは筋書きだけではない。漢字の閉じ開きや改行、読点と句点の位置といった見た目、音読/黙読したときにことばが作る文体やリズムにも影響される。同じような意味の単語がたくさんあって、どれを使っても同じだろうと思っても、実のところはどれを使うかで伝える意図は変化する。
たとえば、ちょっとしたデザインを作るとする。図形の上に文字を乗せただけのシンプルなアイコンでさえ、作るのは簡単そうに見えて簡単ではない。パーツの位置が0.1mm、時にはそれより細かい単位でずれただけで印象が変わる。意味が変わってしまうことさえある。
たとえば、簡単なノベルゲームを作るとする。キャラクターの立ち絵の切り替え、文字を表示する速度、アニメーションが繰り返す長さ。どのタイミングだろうと、1フレーム=0.017秒変化させれば、それだけでプレイ体験やシーンの雰囲気は必ず変わる。
私が手掛けるのは基本的にインディーゲームの翻訳だ。なかでも特に、開発者がこだわりを持ち、情熱を注いで作り上げた作品を翻訳させてもらえる幸運に恵まれてきた。そんな作品は、前述したような細かい要素を、気が遠くなるほどの手間を、回数をかけて微調整して作られていることがかなり多い。
ゲームのビルドが未完成で、翻訳作業と共に完成度が上がっていくのを間近で見られる案件もあった。そんな案件で開発陣と並走しながらビルドが磨き上げられていく過程を見ていると、ことばと、ことばによらない膨大な要素の両方で体験をゼロから組み立てていく、形にしていく開発陣の実行力と想像力にはいつも、畏敬の念を覚えずにはいられない。
2016年にスタートした私のキャリアはそろそろ8年を超えた。いろいろなことが起きた。転職が頭をちらつくほど疲れも溜まった。これから先の自分をどうするかは、まだそこまで考えていない。
ただ、ゲーム翻訳という仕事に対して――ゲームとことばの関係について私が考えていることは、昔から変わっていない。
ゲームに、翻訳で失敗してほしくない。
翻訳なんて、なにも気にせずにリリースされてほしいし、プレイされてほしい。
開発者のこともプレイヤーのことも、泣かせたくない。
さて、書き出しをもう一度繰り返そう。
ことばにならないものがないなら、ゲームは生まれない。
だから私は、ゲームを翻訳するとき、「ことばを読む」のと同時に、「ことばではないもの」も読む。
「ことばの外にあるもの」、「ことばになっていないもの」を読む。
テキストだけではないアートを、デザインを、サウンドを、UIを、演出効果のタイミングを、読む。
そういった非言語的なものも、あるいは「ことば」の一部なのかもしれない。
ゲーム翻訳やローカライズを取り巻く状況、翻訳者がどんな情報やパーツ、環境を必要しているのか、翻訳者たちが何をしているのか、知らない人たちは大勢いる。プレイビルドを触ることができる、開発者にいくらでも質問できる案件は、実は現在もそう多くはない。翻訳者がゲームをプレイすることや、翻訳実装後の品質チェックを行うことの重要性を知らないクライアントや開発者とも出会ってきた。そんなときは、できるかぎり丁寧に説明してきたつもりだ。
ゲームとことばの関係を、考えたい。ゲームとことばの関係を、知ってほしい。
ゲーム翻訳者にも、翻訳学習者にも、開発者にも、プレイヤーにも、それ以外の人たちにも。
そんなことを考えて、祈りながら、ゲームを訳して、文章を書いている。
願わくば、私のこのことばを読んだ人に、私が表そうとした「ことばではないもの」が伝わらんことを。
(この記事は、ゲーム『Inscryption』などを手がけたゲーム翻訳者、いはらさん主催によるアドベントカレンダー企画、「ゲームとことば」のために執筆したものです)
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