最後の場面でスイッチがOFFになったとき、世界は終わる。
OFF by Mortis Ghostは、ベルギーで開発されたフランス語のフリーゲームだ。タイトルにも名が入っているMortis Ghorst氏のチーム、Unproductive Fun timeによって開発された。
このゲームにおいて、プレイヤーは「バッター」という存在の操作を任せられる。
「バッター」は果たさなければならない重要な任務を帯びており、プレイヤーは「バッター」を導いてそれを達成しなくてはならない。ジャンルとしての分類はRPGだ。
制作は2007年。英語版の公開が2011年。
私の翻訳が使われた日本語版ができたのは、その3年後の2014年8月12日だ。
今から実に7年前のことになる。
この記事では、あのときのことを振り返っていこうと思う。
OFF日本語版は、最初から有志翻訳プロジェクトとして立ち上げられた訳ではない。発端はニコニコ動画にアップロードされた和訳プレイ動画だった。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm22307731
当時、私はTeam Fortress 2のファンコミュニティにいた。そこでコミックや公式wikiの翻訳を手伝っていたところ、動画製作者さんから声をかけていただいた。
いわく、OFFというゲームがあり、海外で話題になっている。
プレイ動画を作りたいが、自分には英語の知識がない。
サラチさんは英語が得意なようだから、字幕の翻訳を手伝ってもらえないか?
単に面白そうだからという理由で、私は二つ返事で引き受けた。
動画の初投稿は、2013年5月5日。
それ以降、動画は週に一回のペースで投稿されていった。
ゲーム翻訳業界用語で言うファミリアライズーーゲームを実際にプレイしての確認はほとんどしていない。
情報源は基本的に、動画製作者さんの撮った動画のみだった。
振り返ると、これは翻訳する条件としては厳しいように思う。今後の展開がわからず、伏線があっても気付けない状況で、場当たり的に翻訳をしていくことになるからだ。
しかも、このゲームの原作は英語ではない。フランス語である。原作から別の言語に翻訳されたものを元にして、そこからさらに別の言語へ翻訳することを重訳という。これは例えば、誰かが描いたリンゴの絵から、その人が直接見ていた本物のリンゴを写真のような正確さで再現しようとするようなものだ。この手法で原作のニュアンスを損なわずにプレイヤーへ伝えるのはかなり難しい。
翻訳業界のいろはを多少は知った今なら、字幕翻訳の基礎も知らない素人がこんな案件に挑むのは垂直な岩壁をよじ登るようなものだということがわかる。だが幸い、当時の私はあまりにも無知だったので、自分がそんな無茶なクライミングをしていることに気づかなかった。
和訳動画の本編は2013年9月15日に完結した。
それからしばらく経ち、2014年の7月。Twitterで私に声をかけた方がいた。
OFF日本語化計画の立ち上げ人、YSSNさんだ。
YSSNさんはこう言ってくれた。
和訳プレイ動画を見た。あなたの翻訳を有志日本語版に使いたい、と。
ログを見つけられなかったので正確なところはわからないが、私は確かこう答えた。
「ありがとうございます、嬉しいです。まったく構いませんが、あれは全体像が見えない状態で場当たり的に訳していったものなので、お時間をいただいてもっと改善したいです」と。
1ヶ月。
和訳プレイの字幕をOFF日本語版の本文としてブラッシュアップするのにかけた時間だ。
和訳プレイ動画の翻訳にかかった時間がおよそ4ヶ月。
その4分の1の時間で翻訳をすべて見直し、修正をかけ、有志の校正者へ送って、返ってきた結果を元に最終稿を作った。
OFF日本語版のブラッシュアップ作業は、シナリオの順序通りには進まなかった。
一番手こずったのはZONE 0の訳だ。
プレイされた方ならばピンとくるだろう。そう、このゲームの名物猫であるジャッジが初登場する舞台にして、ひたすらややこしくて回りくどいセリフを喋り続けるステージである。
この猫の言うセリフをわかりやすく簡単にすることもできた。
実際、和訳プレイ動画ではジャッジの一人称を「僕」とし、比較的くだけた口調で訳していた。
しかし私は結果として、そうしなかった。
一人称が「僕」だった和訳プレイ動画の翻訳から一人称「私」に変更したうえで、古めかしい単語や言い回しを多く含む、かなり堅苦しくて仰々しい口調へ、わざわざ変更したのだ。
「難しいものは難しいと伝わるように訳さなくてはいけない」
翻訳者の間では、たまにこんな心構えが話題にのぼることがある。
その言葉を知ったのは、肩書きがゲーム翻訳者になってからしばらく経った後のことだった。その意味するところを知ったのは、さらにもっと後だった。そうすべき理由は今ならわかるような気がするし、言語化して説明することもできるかもしれない。
だが当時の私の頭の中には、そんな概念も理屈もなかった。
それでも自分の感覚というか、直感のようなものが、こう言っていた。
「この猫が喋る言葉を平易にしてはいけない」と。
そのためにZONE 0 は、チュートリアルステージだというのに
「曖昧模糊たる対談者どの」「重畳」「邂逅」「茫洋とした霊的存在」
だのという面倒な字面の言葉が多用された、プレイ内容を把握しにくいステージとなった。
難解で、不親切で、とっつきにくい。しかしおそらく、それはMortis Ghost氏の意図したところだ。それを易しい言葉に言い換えてしまえば、きっとジャッジはジャッジでなくなってしまう。だから私は、あのチェシャ猫の訳はあれでいいと確信している。
楽ではなかった。だが、夢中だった。自分が感じ取った作者の世界をどうやれば人に伝えられるか。ただひたすらに、目の前のパズルを解くことに没頭することが楽しかった。とにかく、英語を読み解いて日本語へ構築しなおしていった。
OFFのストーリーは難解だ。一筋縄ではいかない。
爽快感のあるラストは訪れないし、謎は残されたまま解かれない。
プレイヤーは数々のゾーンを渡ってやがてはThe roomへ至り、
そして最後のスイッチを「OFF」にする。
日本語を第一言語とするたくさんのプレイヤーが、スイッチを「OFF」にした。
行動を選択し、ゲームのラストを見て、なんらかの感情を胸に抱いたはずだ。
その思いは私のものと同じではないだろう。だが、それでいい。
この記事を読んでOFFをプレイしてみたくなった人がいたならば、ぜひプレイしてほしい。久しぶりにやりなおしてみたくなった人も、どうかプレイしてほしい。そして英語や仏語に詳しい方がもし7年前の私の拙さを見つけたなら、どうか微笑んでやってほしい。
自分が挑んでいるものの困難さを知らないまま、熱に浮かされて初めてのゲーム翻訳へ挑んだ過去の私の、愚かで愛しい情熱が、そこにはまだ光っている。
私に声をかけてくれた動画製作者さんとYSSNさん、校正を手伝ってくれたお二方、日本語版ゲームをプレイして楽しみ、さまざまなファン作品を生み出してくれたプレイヤーの皆さんと、OFFを作ってくれたMortis Ghost氏へ限りない感謝を。
あなたたちが、私をゲーム翻訳者にしてくれた。
日本語になったあの世界のスイッチが「OFF になった」とき、
ゲーム翻訳者としての私のスイッチは「ON になった」。
だからいま、ここにいる。
ーーちなみに、これはとてつもなくどうでもいい蛇足なのだが、これからプレイされる方も、またプレイしたくなった人も、OFFのチュートリアルでどうか1度「オート」を選択してみてほしい。そうしてもらえると、あの猫により発生した日本語化チームの苦しみが、ほんの少しだけ浄化される。
(この記事は、ゲーム『Inscryption』などを手がけたゲーム翻訳者、いはらさん主催によるアドベントカレンダー企画、「ゲームとことば」のために執筆したものです)